友の御魂(みたま)を見送って

今月14日午前0時14分、中学校以来の親友O倉H彦が亡くなった。
Oは八戸で1989年から産婦人科医院を開業し、2011年に体調を崩して退任するまでの23年間で、取り上げた分娩数は実に16,000件を超えていたという。個人医院としては想像を超える数で、退任が明らかになったときは八戸を含む青森県南部のは産婦人科状況は深刻な社会問題になったと聞いている。退任後はもう一つのライフワークであった浮世絵や吉田初三郎の鳥観図の塊集を中心とした美術館の運営に情熱を傾けていた。これらは本人がモットーにしていた゛世のため、人のため”を如実に現している結果といえる。公人としては地元の八戸はもちろん青森県内でも名の通った名士である。

しかし、中学校の時に初めて会って以来60年の付き合いである私にとっては、いつまでも若々しい・情熱の塊であった゛彦ちゃん”なのだ。

12日奥様からの連絡で、かなり悪いと聞き、矢も楯もたまらず翌日八戸へ飛んで行った。着いた時は意識が朦朧としていて、医師をしているご子息が付きっ切りで見ておられた。呼びかけにかすかにうなずいたように感じたのは気のせいだったろうか。
翌日の朝に自宅を再訪した時に奥様から昨夜亡くなったと聞かされ、思わず言葉を失ってしまった。亡骸を見たとき、その顔は闘病で多少やつれたせいもあり、細面の昔の゛彦ちゃん”そのものの穏やかな寝顔だった。

奥様から経緯を聞くと、病気が判ったのは6年半前で、本人の意志でもありひたすら外部には隠していたのだという。奥様の話では見えないところでは壮絶な病との戦いがあったそうだ。Oの性格が滲み出ている思いだ。

昨年9月、共通の友人であるW辺と女房連を含め6人で居酒屋で飲んだ時は、昔話に話が弾み、大いに笑い、とても喜んでいたのが印象的だった。その時は決して体調がよくはなかったと亡くなった今に奥様から聞かされたが、とてもその時にはおくびにも顔に出していなく、昔の儘の友人の姿だった。それからわずか8か月でこんな別れに遭遇するとは…

Oが目指した゛世のため、人のため”は幸い4人のご子息が立派に引き継ぎ、医学の道は長男と長女が・美術の道は三男が・経営の道は次男が、それぞれOのDNAを発揮して活躍されている。

18日の葬儀を終え、自宅に戻ってきてからしばらく雑用が重なりOを思い出すことはなかったが、一段落した2~3日前から頭の片隅からOの顔が離れなくなってきた。いまだにOがこの世に存在していないということは信じられない思いである。
しかし、現実は現実として受け止めなくてはならないと自分に言い聞かせることにしている。ただOは永遠に私の中では生き続けている。

Oとの思い出は数限りなくある。
これから、それらの交わりを思いつくままに書き綴り、ひとり友との邂逅に浸って行きたいと思っている。
                               2018・5・25

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by hkatsu59 | 2018-07-01 15:00 | 亡友想記 | Comments(0)  

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