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友の御魂(みたま)を見送って

今月14日午前0時14分、中学校以来の親友O倉H彦が亡くなった。
Oは八戸で1989年から産婦人科医院を開業し、2011年に体調を崩して退任するまでの23年間で、取り上げた分娩数は実に16,000件を超えていたという。個人医院としては想像を超える数で、退任が明らかになったときは八戸を含む青森県南部のは産婦人科状況は深刻な社会問題になったと聞いている。退任後はもう一つのライフワークであった浮世絵や吉田初三郎の鳥観図の塊集を中心とした美術館の運営に情熱を傾けていた。これらは本人がモットーにしていた゛世のため、人のため”を如実に現している結果といえる。公人としては地元の八戸はもちろん青森県内でも名の通った名士である。

しかし、中学校の時に初めて会って以来60年の付き合いである私にとっては、いつまでも若々しい・情熱の塊であった゛彦ちゃん”なのだ。

12日奥様からの連絡で、かなり悪いと聞き、矢も楯もたまらず翌日八戸へ飛んで行った。着いた時は意識が朦朧としていて、医師をしているご子息が付きっ切りで見ておられた。呼びかけにかすかにうなずいたように感じたのは気のせいだったろうか。
翌日の朝に自宅を再訪した時に奥様から昨夜亡くなったと聞かされ、思わず言葉を失ってしまった。亡骸を見たとき、その顔は闘病で多少やつれたせいもあり、細面の昔の゛彦ちゃん”そのものの穏やかな寝顔だった。

奥様から経緯を聞くと、病気が判ったのは6年半前で、本人の意志でもありひたすら外部には隠していたのだという。奥様の話では見えないところでは壮絶な病との戦いがあったそうだ。Oの性格が滲み出ている思いだ。

昨年9月、共通の友人であるW辺と女房連を含め6人で居酒屋で飲んだ時は、昔話に話が弾み、大いに笑い、とても喜んでいたのが印象的だった。その時は決して体調がよくはなかったと亡くなった今に奥様から聞かされたが、とてもその時にはおくびにも顔に出していなく、昔の儘の友人の姿だった。それからわずか8か月でこんな別れに遭遇するとは…

Oが目指した゛世のため、人のため”は幸い4人のご子息が立派に引き継ぎ、医学の道は長男と長女が・美術の道は三男が・経営の道は次男が、それぞれOのDNAを発揮して活躍されている。

18日の葬儀を終え、自宅に戻ってきてからしばらく雑用が重なりOを思い出すことはなかったが、一段落した2~3日前から頭の片隅からOの顔が離れなくなってきた。いまだにOがこの世に存在していないということは信じられない思いである。
しかし、現実は現実として受け止めなくてはならないと自分に言い聞かせることにしている。ただOは永遠に私の中では生き続けている。

Oとの思い出は数限りなくある。
これから、それらの交わりを思いつくままに書き綴り、ひとり友との邂逅に浸って行きたいと思っている。
                               2018・5・25

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by hkatsu59 | 2018-07-01 15:00 | 亡友想記 | Comments(0)  

出会い

そもそもOとの出会いは何時だったのか。今でも初対面の印象は鮮明に覚えている。
私が通っていたF中学は、終戦真近の゛産めよ増やせよ”の時代に生をうけたせか、生徒数が1クラス50名強で、それが10クラスもあったマンモス学校だった。しかもOとは小学校が違っていたせいもあり、1年生の時は面識がなかった。
2年生の時に同じクラスに転校してきたKが、我が家から歩いて2~3分のところに住んでいたこともありよく遊びに行っていた。ある時Kの家の前で立ち話をしていると、すぐ前の家の2階からこちらを覗いている顔があった。Kが声をかけるとすぐに降りてきた。それがOだった。その時の第一印象は、背がスラっと高く、子供ながらにいわゆる゛格好いい”タイプで、当時爆発的人気を誇った石原裕次郎の中学生版と思ったくらいだった(少し大げさだが事実そう思ったのは間違いなかった)。
なにせ1学年に生徒が500名以上いて、しかもクラスが私が4組・Oが9組と離れていたこともあり、学校ではが知り合う機会がなかった。しかし、そこは同学年、打ち解けるのに時間はかからなかった。3人の立ち話で、学校の先生や悪童のこと・特に女生徒の話では取り留めもなく話は尽きず、暗くなるのもわかななくなるほど立ち話をしていた。
それからは学校では互いのクラスを行き来したり、休日は家が近かったこともありKを交えよく遊び合っていた。
そのうちKが引っ越ししてしまったが、Oとの交流は続き、Oが間借りしていた2階の下から゛ひ・こ・ちゃーん”と叫ぶと、窓からニューっと顔を出し゛おー!!”とあの人懐っこい声を出したものだった。
それから、お互いの家を行き来するようにもなり、Oの部屋へは1階のスルメ加工の脇をスルメの良い匂いを嗅ぎながら通って、2階に上がったものだ。
それ依頼、実に60年もの間の付き合いとなった。
                               2018・5・29

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by hkatsu59 | 2018-07-01 14:45 | 亡友想記 | Comments(0)  

生徒会長

OはF中学校3年時に前期生徒会長を務めた。全校生徒の前で一段高い壇上から、会長立候補の演説を落ち着いてかつ堂々と、言っていたのをはっきり覚えている(内容は忘れたが)。
生徒会長として何をやっていたかは判らなかったが、古い当時の中学校の文集が出てきて、その中にOの文章を見つけたので、以下に引用する。

       
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゛生徒会のあゆみと反省”
反省   前期会長  O倉H彦
僕は今まで会長として何もして来なかった。
したがって今さらとやかく云えた義理でもないが、一言云わせてもらう。F中生徒会は、全然なっていない。何か事ある時は、先生方が決めて、生徒会としての仕事は非常に少ない。全く宙に浮いている様だ。仕事があっても会長の仕事が多く、副会長、書記長並びに会計の仕事が全くないといってよいほど少ない。これでは、副会長等があまりにかわいそうだ。能力があっても、仕事をする意志があっても何も出来なく、笑いものになるのだ。学校では前年例もあり予算を生徒会にまかせていない。従って会計の仕事がなくなる。又クラブは5時か6時で終わりじゅうぶん練習が出来ない。又一方、あの様なむずかしい生徒手帳では誰も見ず、従って校風が乱れる。僕は卒業に当り、あえてこういう事をいう。それは、今後在校生諸君が少しでも学校を良くしていってもらいたいと思うからです。僕が無力であったことを再び詫びます。このままでは生徒会はあってもなくても同じ事です事。協力が大切なのだ。

この文章を目にしたときは゛なんだこれは!!”と正直思ったものだ。後期の生徒会長が、この文章の後に゛に○○があった…○○をした…”と書いていたのとは対照的だった。
よほど思うところがあっての学校への批判だったのだろう。1年間の最後の全校生徒に配る学校文集に載せるべきものだったのだろうか。これに対する先生方の反応や後輩がその後どう生徒会を運営していったのかは判らい。
これでOの生真面目さや正義感が垣間見られるようだ。生前、これの真意や後日談があったか聞いてみたかったものだ。


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同じ文集に、Oの詩も載っていたので記しておく。

        夜     O倉H彦

窓一つ隔てた通りに

しんしんと降り積もる雪

この夜ふけの空を明るく染めて

枯れ枝に積もり

その光が夕やみの灯りに似て

白くほのかに漂い

あわい夢をさそう

かすかに聞こえる足音と影

その足音がしんにせまり

その影が恐怖を呼んで過ぎて行く

あわい夢は破れ

そして夜はふけてゆく

ガラスの花模様

よく見ると実にきれいだ

しかしこの氷の冷たさと

心のない静物の冷たさが

心の中までしみとおり

寒い夜を自覚する

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中学3年生にして、このロマンチストさ。終生変わらなかった一面だ。

                          2018・6・1


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by hkatsu59 | 2018-07-01 14:30 | 亡友想記 | Comments(0)  

母親の事

Oのお母さんには大変お世話になった。
高校時代は暇さえあればC水産の2階の奥の部屋、いわゆるO母子の部屋によくお邪魔して遊んでいた。
しかし、正直我々が部屋にいる時間帯は、お母さんは経営している映画館に入りびたりになっているのでほとんど顔を合わせたことはなかった。Oに映画館に連れて行ってもらった時は社長室に入れてもらい、冷たい飲み物をごちそうになったり、評判の映画をタダで見せてもらったり、といい思いをさせてもらった。しかし、仕事をしているお母さんを見ると、部下にテキパキと指図したり、業者とのやり取りも無駄のない流れで処理したり、と子供ながらにもすごいお母さんだなあと尊敬の念を持ったことを覚えている。
Oのお父さんはOが3歳の時鉄道事故で亡くなり、それ以来お母さんは苦労をされたと聞いているが、映画館経営と巡り会ってからは順風満帆を歩いてこられた。しかし、これはお母さんの経営努力があってのたまものであろう。実は私も父親は戦死していたため、父親の顔は全く覚えていない。Oも父親の顔は知らないということで、この点で共通点があった為か自然に意気投合した感もあるのだ。しかし、母親のことになると我が家とはまるっきり違うのだ。私の母はいわゆる家事が好きで、若いころ飲食店をやっていたせいか料理が得意だった。だが肝心の経済力はまるで駄目でいつも火の車の家庭だった。
ある時、お互いの母親の話になったときに私が仕事が出来るOの母親がうらやましいと言ったことがある。するとOは逆に私の母親がいいなあとポツリと言ってきた。母親の作った料理を食べ、母親との夜の団欒がうらやましいというのだ。これを聞いて、Oも寂しいのだなあと痛感し、それ以来母親の話題はお互いに口にしなくなった。

その後も、Oとお母さんを見ていると本当に仲が良く、我が家のような母子喧嘩など無縁のようだった。Oが三浪の末に新潟大学医学部に合格した時、お母さんがとても喜んでくれて゛初めて親孝行してくれたね”と言われたと喜色満面で話してくれた。
そのお母さんが48才の若さで早逝されるとは想像だにしていなかった。それ以降のOの寂寥感は推して知るべしの思いだった。
                                2018・6・4


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by hkatsu59 | 2018-07-01 14:00 | 亡友想記 | Comments(0)  

実は運動神経抜群?

○○もおだてると木にも登る。こんなこともあったという話。

Oの運動神経は特にこれといって目についたものはなかったと思う。走っても早いということもなく、球技も素晴らしいということはないが、そこそこにはこなしていた。
ただ、私とOは水泳が大の苦手であった。金槌ではなく浮くのだから木槌であると二人で言い合っていた。ただ浮いていても前には進まず、ストロークするとなぜか下へ下へと進み、ついには息が続かずギブアップしてしまうのである。体育の実技で水泳があり、このままでは単位が取れそうもないので、Oと二人で夕暮れの合浦公園へ行って浜辺で練習し、気が付くと暗くなっていたということもあった(このことはOの著書゛あなたの心にほほえみを~エピソード・1~のP44で書いている)。その程度の運動神経なのだ。
津軽の冬は雪がかなり積もる。空き地があればそこは相撲の土俵となり、よくOと相撲をとっていた。Oは力が強く、捕まえられると寄られたり吊りだされたりと全く歯が立たなかった。ただ技巧派(?)の私は潜り込むと出し投げや外掛けなどで転がし、Oを悔しがらせた。まあ、勝敗はそこそこであった。

前段が長くなったが、意外という一面もある。高校3年の12月にクラス対抗校内柔道大会があった。柔道は体育の授業で2~3回やった程度で基本もまるで知らないといっていい。そんなこともあって各クラスともに出場者が少なかった。クラス3人の選手が基本だがOのクラスでは選手は1人しかいなかった。そこでが体格の良いOが目を付けられ、力ずくで相手を押していけば何とかなると固辞するOをおだてあげ、とうとう出場させた。3人の選手のうち2人のエントリーなので1人負けると敗戦となる。
ところが、Oは我々野次馬の声援を受けてか、相手を力任せに押し倒して圧倒して、あれよあれよと1回戦・2回戦を勝ってしまったのだ。さすが3回戦には相手のクラスには柔道経験者がいたので棄権してしまったが、柔道未経験の2人で2回戦まで勝ちあがったというので結構学校で評判になったものだ。

もう一つ、これは喝采ものだが…
やはり3年生の時、9月に行われた運動会兼記録会でのこと。各競技へのエントリー募集があったときに、なんの根拠もなかったがOを走り高跳びに出そうということになり、我々野次馬連中がおだてあげるとOも渋々(それとも内心喜んでか)出ることになった。この種目には体育会系バレーボールのエースアタッカーのK田やN田が出ていて、優勝はこの二人のうちどちらかというのが前評判だった。このころ流行になっていた背面飛びで跳ぶ運動部の連中に対し、Oだけがオーソドックスなベリーロールという跳び方なこともありノーマークの存在だった。ところが蓋を開けてみると、運動部に所属していないOがあれよあれよとバーを上げていって、ついに1メートル60を跳んで本命の2人を抑え優勝してしまったのだ。これは胸がすかーッとする快挙で、成績が発表になるや驚きの声が上がったものだ。

意外とOには隠された運動神経があったのかと思い知らされたものだった。しかし、Oは相変わらず運動には無関心で、この2件を除くと目立ってスポーツに手を染めたとは聞いていない。実はこの運動神経に目を付け、木に登らせる名伯楽がいたとしたら、その後のOは全く違った人生を歩んでいたのかもしれない、が…
                               2018・6・7


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by hkatsu59 | 2018-07-01 13:30 | 亡友想記 | Comments(0)  

アルバイト

Oとは生涯、2回だけ一緒にアルバイトをしたことがある。

1回目は、お互い進学の夢破れ、卒業式を終えてくすぶっていた時、知人から紹介され廃品回収業者の整理のアルバイトをした。これがお互い人生初めてのアルバイトである。
仕事の内容は、集めてきた古新聞・古雑誌を梱包し積み上げていくものだった。風通しの良くない倉庫の中で新聞雑誌を紐でくくり、それをヨイショとうず高く重ねていくので、かなりの力仕事だった。3月の青森はまだ寒かったが、一日倉庫の中で働くと汗がびっしょりだった。1日目は一生懸命働いたが、翌日は体のあちこちが痛み、とうとう2日目で私はダウンしてしまった。しかし、Oはケロッとして手を抜くこともなく働き詰めだった。結局私の方からOに止めようと言い出し、2日間のアルバイトで終わってしまった。たった2日間だったので当時で数千円のアルバイト料だったが、後でOに聞いたことだが、初めて自分で稼いだアルバイト料でお母さんに何か買ってプレゼントしたそうだ。お母さんは大変喜んでいたとにっこり笑って話していたことを思い出す。Oの親思いの性格が滲み出ていて感心したものだ。

2回目はOが大学1年の夏休みに上京し、我の部屋に転がりこんで来た時だった。ぶらぶらしていてもしょうがないということで、高田馬場駅近くの神田川沿いにある小さな町工場でアルバイトをした。ここは電気スタンドの傘の部分を組み立てるという仕事だった。仕事の内容は傘の骨の部分を溶接し、その上から布を張り付けていくという単純作業だった。これを朝8時から夕方5時ごろまで黙々と働いた。従業員は4~5人の小さな工場だったが、見えないところで息を抜く私と違い、手を抜かずに働き続けるOは社長や社員に好印象を持たれていた。結局20日ほどアルバイトをしたが、最終日にはOに社長からもう少し働いてくれないかと打診があった。しかし、新潟の大学生であるということであきらめてもらったものだ。
このことを見ても、どんなことにも手を抜かず一生懸命にやり遂げるという性格がにじみ出ているのが判り、その後の産婦人科医での仕事にも表れているのだ。
                                2018・6・9

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by hkatsu59 | 2018-07-01 13:00 | 亡友想記 | Comments(0)  

淡い青春の1ページ

多感な高校生から大学時代にかけては、甘酸っぱい青春の一コマは誰にでもあるもの。
Oはどうだったろうか。思い浮かぶことがひとつある。

高校3年の体育会で見事走高跳で1位になった日の夕方、お祝いと冷やかしを兼ねてOの家へ行った時である。いつもの通りOの家の前で立ち話をしている時、すぐ前のF小学校の校庭でソフトボールをしている女子中学生と思しき5~6人を見つけ、しばらく見入っていた。ところが見ていてもどうも動きがぎこちない。そして、どちらからともなくコーチしてやろうということになり、女子中学生の中に入っていった。Oはボールの打ち方、私はボールの取り方を教えた。そのうち暗くなりかけてきたので終了ということになったが、その女子中学生から゛近じか校内ソプトボール大会がありその練習をしていた。明日、別のK小学校で練習するのでまたコーチしてくれませんか”と頼まれる。頼まれると嫌とは言えず翌日(日曜日だった)K小学校まで行って午前中みっちりコーチで汗を流したのだ。別れ際、その女子中学生はN中学校の3年生だということだった。
その後、このことはすっかり忘れていたが、しばらくしてからOの家に遊びに行った時、あの時の女子中学生のうち3人くらいだったと思うが、Oの部屋にいたのにはびっくりした。コーチしてもらったお礼(試合結果は覚えていないが)に来たのだそうだ。自己紹介してもらい、しばらく話し込んでいた。その中にT子という利発そうな可愛い顔立ちの娘がいて、会話にもスムーズに入ってきて印象が良かった。聞くと我がA高校を受験するという。先輩ぶって受験の心得(?)も話して聞かせた。帰った後もOとはしばらくT子の話題が尽きなかった。
翌年の春に無事A高校に合格したとわざわざ報告に来るほど律義な娘だった。
その後、私は予備校・大学と東京生活、Oは仙台・東京での予備校生活と別れ別れになったが、Oからの手紙ではT子との文通は続いているということだった。
次に私がT子にあったのは、Oが新潟大に合格した後、やはりOの部屋だった。それからしばらくはOとW辺も交え、時々会う機会もあった。又、OもT子の家に遊びに行ったこともあるというので、いいお付き合いをしていると思っていた。
そこで、Oに゛T子を好きなんじゃないか”と聞いてみたことがあるが、Oは゛T子は俺のことをお兄さんとみているので、こちらもその気にはなれない”という返事だった。大体恋愛なんてこんなことから始まり、進行していくものなのだ、とW辺と話をしてしばらく様子を見ようということになった。その後、T子は東京の大学を受験すると言っていた。それから二人の交際は続いていたのかは不明だったが、ある時Oの口からT子が東京で亡くなったと言い出した。まだ二十歳そこそこで、なんで亡くなったかもはっきりしないという。その時のOを見ているとさほど落ち込んでもいないので、゛ああ、兄・妹の関係から進展していなかったのか”と感じたものだ。その後は、OとW辺との間ではT子の話題はほとんど口にすることはなかった。
私とW辺から見ると、これがOの淡いほのかな青春のひとかけらかなと思うのだが、O本人からするとなんでもなかった時間だったのかもしれない(そんなはずはないと思うのが普通だが)。
こと女性のことになると生真面目なほど淡白なOであった。
その数年後に、ある日突然Oから゛結婚した”という結果報告をもらったときには、゛えッ!!あの女性に対して奥手なOにしては”゛と我が耳を疑ったほどである。
                                2018・6・9

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by hkatsu59 | 2018-07-01 12:30 | 亡友想記 | Comments(0)  

勝負師

Oとはよく勝負事で遊んだ。将棋・百人一首・トランプである。特にトランプではよく遊んだ。津軽地方に伝わる独特の遊びで、4人または5人で遊ぶのだが2対2対か2対3でチームを組み16枚の絵札を取り合い多く取った方が勝ちというゲームだが、これが駆け引きや読みあいがあり、ものすごく面白い遊びである。私の母親が無類の勝負好きで加えて強かったので、W辺を交えた4人でよく我が家に集まり遊んだものだ。Oは読みが深くあまり負けたという記憶がないが、パートナー次第ではどう転ぶか判らないのでつい真剣にならざるを得ない。よく時間の経つのを忘れるくらい夢中になったものだ。
将棋は1対1の勝負なので、2人の時はよく遊んだがOにはほとんど歯が立たなかった。Oは手堅くいわゆるポカをしないし、また一人で詰め将棋をして勉強していたこともあり、読みが深く勝負強かった。
百人一首はW辺の兄弟4人を交え、W辺の家でよく遊んだ。Oは百枚の歌をほとんどん覚えていて、上の句を少し読んだだけですぐに札を取ることが出来たので、勝負ではほとんどが勝ち組に入っていた。
しかし、W辺兄弟は勝負勘があり時々苦杯を喫することがあり、その時はむきになって再選を挑んだものだった。そのOにして不思議なことにこの札だけはほとんど取れなかった。
   小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆきまたなむ
私もW辺兄弟達も札を並べている時には目配せをしながら狙っていて、たとえOが自分の前にそーッとおいても゛小倉…”と読むとすぐに取ってしまった。その都度Oの悔しがりようはなかった。
このように、OはW辺のようなギャンブラー観はなかったが、勝負では堅実で負けない戦いをしていた。そして、麻雀は面白そうだがやるとのめりこみそうなのでやらない、と宣言しとうとう手を出さなかった。
                                                             
                             2018・6・11

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by hkatsu59 | 2018-07-01 12:00 | 亡友想記 | Comments(0)  

夜通しでの談議

高校2年だったか3年か、ある夏の夜朝までOと語り合ったことがある。
いつものように夕方にOの部屋へ遊びに行って、そろそろ帰ろうかとOに玄関まで送ってもらったが、なぜかこの夜は去り難く、結局玄関先で夜が白々開けるまで話続けてしまった。話の内容はもう記憶にはないが、文学論や青臭い青春論・人生論だったと思う。もちろん女性論も…
当時Oは詩に興味を持っていて、青春詩集なる本を片時も離さず持っていた。特に、島崎藤村の゛初恋”と北原白秋の゛落葉松”がお気に入りで、諳んじていていつも口から流れるように出ていたものだ。
           初恋
       まだあげ初めし前髪の
       林檎のもとに見えし時
       前にさしたる花ぐしの
       花ある君と思ひけり

           落葉松
       からまつの林を過ぎて
       からまつをしみじみと見る
       からまつはさびしけり
       たびゆくはさびしかりけり

これをみてもロマンチストたるOの人柄が滲み出てくる。

それと、この夜思わず出たOの本音を今でも鮮明に覚えている。
本当は文学の分野に進みたいのだが、母親が医者になることを夢見ている。これには逆らえたくないので医学部を受験する。しかし、森鴎外の例もあるので文学も捨てたくはない…と。
この、ポツリと漏らした言葉は母親思いのOの心の内であろうとずーッと思ってきたものだ。
その後、医師になってからも多くのコラムを書いていることでも、文学少年だった当時の気持ちを持ち続けていたのが判るというものである。
                               2018・6・16


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by hkatsu59 | 2018-07-01 11:30 | 亡友想記 | Comments(0)  

詩人

私が二十歳過ぎ、ギターをいじっていた(あえて弾くとは言わないが)頃があった。その時にOと曲を作ってみよう、ということになった。作詞O、作曲Kということで意気込んでいた。それ以降Oから詩が次から次と送られてきた。抒情歌風から青春歌や童謡歌までいろいろあった。私もギターをかき鳴らしていったが、どうにも曲にならない。そのうち曲の作りの才能のなさに気ずき放り投げてしまった。しかしOの想い出を書いているうちに、当時のOの詩はあるはず、と思い古い段ボールをひっくり返してみた。やっぱり出てきた。すっかり色あせた紙に書かれた詩を読んでいると、あの頃のOの感情が滲み出ていて懐かしさがこみ上げてきた。
そのうちの、いくつかを紹介してみる。
あの頃、昭和40年半ばは舟木一夫をはじめとした青春歌謡・抒情歌謡が全盛期だったので、多分にその亜流を踏んでいると思われる。詩の巧拙は別にして当時を思い出してみたい。

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その1
     あれから何年過ぎたでしょうか
     私は今敷石の上を
     一人で歩んでいます
     足音がこだまして
     ふとあなたが帰ってきたのではないかと
     何度もふり返る私です

     あなたも時折
     この道を思い出しておりますでしょうか
     あの銀杏の木はすっかり枯れて
     暮れてゆく青空に
     むなしくそびえています

     この辺りの屋並も次第に変わってゆき
     思い出もつい戸惑い
     とぎれがちになります
     あの日以来
     幸福(しあわせ)を求める事さえ
     やめてしまった私なのです

その2
     貴女のことを好きだと知ったのは
     貴女と別れたあとからだった
     なにげないほほえみが
     僕を今もこんなに苦しめるのか

     去年の夏に街で貴女と会った貴女時
     忘れかけた貴女への思いがよみがえった
     黒い髪 白い手 美しい横顔も
     僕の知っている貴女の面影だった

     うわさでは貴女は嫁いでいったという
     枯れ葉の散る去年の秋だという
     貴女は僕のことなど覚えてないだろう
     それでも僕には初めての恋だった
     一生に一度の本当の恋だった
     初恋よ サヨウナラ

その3
     濡れた黒髪かき上げて
     光の中でほほえんだ
     波はきらめく思い出に
     合浦の浜の夕まぐれ

     十和田の水の澄みわたり
     流れに紅葉の降りしきる
     恋は秋より美しく
     心の奥にしのびよる

     恋のかけらの雪しずく
     ふるえて落ちた新町あたり
     白いブーツの後影
     まぼろしばかりやさしくて

読み返してみるとOの心情が垣間見られるようだ。
                              2018・6・19 

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by hkatsu59 | 2018-07-01 11:00 | 亡友想記 | Comments(0)